下関市の功山寺は長府毛利氏の菩提寺。
長府毛利氏は、関ヶ原の戦いで戦闘に参加せず、「宰相殿の空弁当」で知られる毛利秀元が起こした別家。
こちらに、鎌倉時代に作られたという国宝の千手観音像がある(今回は見ず)。
幕末には都落ちした三条実美らの七卿が一時住んだ寺でもある。
しかし、なんといっても、この寺を有名にしたのは高杉晋作だ。
江戸幕府瓦解のきっかjけをつくった奇兵隊を旗揚げした場所なのである。
境内に馬にまたがった高杉晋作の像が建っている。

この人は明治維新を待たずに病死したが、
生きていれば桂小五郎とともに長州閥の巨頭になっただろう。
奇兵隊時代の部下が山県有朋。
山県よりは一回り人間が大きかったので、人心は晋作に集まったはずだ。
伊藤博文もこの人の下で働いた。
大変な勉強家で政治の才があったので、晋作が生きていたとしても頭角を現しただろう。
有名な料亭の春帆楼の別棟に日清講和条約記念館がある。
李鴻章と講和条件の交渉をしたのが伊藤博文。その時の会議の部屋が保存されている。
左の椅子に博文が座り、右隣が外相の陸奥宗光だった。
椅子の大きさに、立場の違いが端的に表れている。今では考えられないが。
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博文は「長州ファイブ」の一人として英国に留学したが、四国艦隊砲撃事件が勃発して急きょ帰国した。
長州藩による攘夷の決行である
皮肉にもこの体験によって、欧米の武力のすごさを知り、長州藩は洋式武器の輸入に突っ走るのである。
その時の大砲のレプリカがこちら。
大砲は壇ノ浦の方向を向いている。
きしくも、平家が源氏に敗れ、安徳天皇が入水したのが壇ノ浦。
下関は源平合戦と幕末が併存する歴史の場所である。