未明にNHKラジオの音で目が覚め、何気なくラジオの声に耳をやると、柳原白蓮の生涯をテーマにした文化講演だった(講師は不明)。
白蓮は連ドラ「花子とアン」に出てくる葉山蓮子(仲間由紀恵が演じた)のモデルになった人。
大正天皇の従妹という高貴な家柄ながら、二度目の夫である九州の炭鉱成金の家を飛び出し、10歳近くも年下の青年と駆け落ち事件を起こした。30代後半のことである。
当時は原敬首相の暗殺より、こちらの方が国民の話題もちきりだったという。
戦前は姦通罪というものがあり、夫は不義の妻を訴えることができた。そんな時代の駆け落ちなので、相当の覚悟が要る行動である。
周囲の勧めもあって、朝日新聞に絶縁状なる投稿を発表し(たぶん姦通罪を逃れるための世論工作)、物議をかもした。
白蓮の作品の発表は朝日より毎日の方が多かったようで、ライバル紙にスクープを取られた毎日は、寝取られた夫の告白文の掲載をもって対抗した。
白蓮の生涯を調べると、金で買われた結婚をはじめとして、幸せよりずっと苦労や悲しみが多かったというべき人生を送っている。
ドラマにもあったが、終戦の3日前に空襲で息子を失ったのは痛恨の極みだっただろう。
白蓮は華族の柳原前光と妾のりょうの間に生まれた。
妾といっても、元は幕臣で外国奉行を務めた新見正興の3女である。
この人は歴史の教科書に出てくる人で、井伊直弼が日米修好通商条約を締結するのにワシントンに派遣した使節団の正使。
この時No.3の監察を務めたのが有名な小栗上野介忠順(ちなみに私は小栗顕彰会の会員です)。
小栗家の維新後も悲惨だったが、新見家は正興が維新の渦中に病死し、瞬く間に零落した。
世が世なら殿様の娘として何不自由しない人生を遅れたであろう娘たちが、芸妓に売り飛ばされたという。
16歳のりょうを落籍しようと競い合ったのが、柳原と伊藤博文だったというから驚きである。
18歳で白蓮を産み、21歳で亡くなった。
だいぶ後に白蓮は、りょうの墓を探し当て供養している。
![Yanagiwara_Byakuren[1]](http://blog-imgs-59.fc2.com/t/a/m/tamikazu/201410130136097a1.jpg)
白蓮の夫、竜介は有名な革命家・宮崎滔天の息子でばりばりの社会運動家。滔天は孫文と親交の深かった人で、兄の宮崎八郎も司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に登場するほどの人物だった。
家の風格というのは、いざという時に現れるもので、関東大震災の直後、ある家に幽閉の身だった白蓮に宮崎家は安否を気遣い差し入れするが、柳原家はあいさつの一言もなかったという。
竜介は肺病を患い働けない時期が長く、駆け落ち後の苦しかったころは白蓮の筆一本で生計を立てた。家に居候する書生の仕送りまで本人に内緒で白蓮がしていたという。
ドラマで白蓮につらく当たった義母は実際は逆で、滔天の妻にふさわしい教養と度胸があり、世間の迫害に遭う白蓮を何かにつけて助けてくれた人だったそう。
白蓮は戦後も生き続けて1967年に81歳で亡くなる。
東京オリンピックの時にも存命していたが、オリンピック前に失明していた。
目の見えない晩年の白蓮を竜介がよく支えたという。
白蓮が宮崎家に来て幸せだったかどうかはわからないが、炭鉱王や柳原家よりは、白蓮のためにしてやれたのではないかいうような感慨をもらしている。
白蓮の辞世の句が以下。
「そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ」
果てしのない闇にあっては、星あかりでさえ支えになる。そのような光を自身の中に見いだして生きてきたというのだから、納得の生涯だったということだろうか。